かたつむりのまったりソテー(夢)

まれ子の日常をベースにしたフィクションです

推し活をする理由と、推し活が嫌いな理由

今日、友達から借りて『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んだんだけど、思うところあったので忘れないうちに書いておく。

自分がもやもやしてたことをはっきり言葉にしてくれた面と、相変わらずもやもやする面と。

そもそも「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」に対する答えとしては、現代人は仕事で自己実現することに価値をおいているため、全力を仕事に注いでしまい、想定外の経験を与えられるような読書という行為は生活のノイズとなるので排除してしまうから、という答えになっていると思う。これは私が日々生活の中で感じることでもある。私が、ノイズ、つまり摂取するのにハードルやストレスを感じる娯楽は「読書」「映画」「テレビ」、逆にハードルを感じない、この本の言葉で言えば「情報」にあたるものは「SNS」とくにXとYoutube。私がYoutubeは見たいのにテレビを見たくない最大の理由として普段感じているのは「テレビは情報量が多すぎる」といこと。つまりそれはノイズなんだろう。でも、テレビが面白くないとかくだらないとか、娯楽としてYoutubeの動画より劣ってると感じるわけではない。ただ、生活で困憊しているときに、テレビって頭使うな、疲れるなと思うのである。

 

では、どうすれば「働きながらも本を読めるのか?」といえば、「半身でいること」、つまり何か一つのことに全力をそそぐことを是とするな、余白をつくれということと読み取った。そのために現代にはAIなどの便利なツールがあるではないかと。何かに全力になるのは、実は逃避なのだからと。

これも私がすごく最近考えることで、「何かに必死になること」は「自分から逃げること」だなというのは漠然と感じていた。「24時間仕事だけをすること」「24時間育児だけをすること」「24時間家事だけをすること」それを許されたら、それは実は楽なんだ、それを目指すことは自分からの逃避なんだというのは本当にそうだなと思う。だって、仕事だけ、育児だけ、家事だけで(ほかのことでも)だれか一人の人間を構成することなんかできるわけないから。

ただ、「半身で生きること」、余白を作り、ノイズを娯楽として楽しむことって、やろうと思ってできることなのかなというのも思う。それができる人って、この状況を俯瞰出来て、自覚出来て、そのうえで実際に行動変容をできる人で、つまり、既に余裕がある人ではないのか?と。

 

そういうことを考えるとき、私の中にちらつくのは推し活という言葉だ。私は自分自身が推し活にどっぷりと浸かりながら、推し活を心底嫌っている。その理由を言語化しようとずっと考えているけど、その答えの近くをこの本の内容は示しているなと思った。推し活というのは「一つのことに全力を注ぐ」手段なのだ。これが本当に、私が推し活を嫌いな理由なのだ。何かを推す行為は、何かを好きになったり、ファンになったりすることとは根本的に違う。対象のコンテンツよりも、対象を推す行為にフォーカスが当たっている。それって何かとても歪なかたちではないかといつも感じる。

私は自分が推しているコンテンツを実際に愛しているけれども、その歪さもずっと感じている。そしてどこにその歪さの原因があるかも、少なくとも自分のことについては自覚もしている。私の推し活は、仕事上の挫折の後に始まっているからだ。

私は20代後半から30代前半にかけて「仕事に全力を注ぐ」と心に決めた。ほかのことを犠牲にすることも覚悟したし、仕事の成果を絶対にあげたいと考えていた。その覚悟が伝わって私は大きな仕事を任せてもらえた。しかし、結果として仕事に対して私のキャパは足りず、結局身体を壊してしまって、仕事は途中であきらめざるを得なくなった。任された仕事は降りて、2か月ほど仕事を休んで、少し小さめな仕事に復帰した。本当の地獄はそこからだった。それは完ぺきな挫折だった。考えてみればそこまで大きな挫折ってここまでしてこなかったのかもしれない。もう5年以上の歳月を仕事だけに注いでしまっていた。結果は残らなくて、5年の間に失ったものはあまりにも大きくて、キャリアも中断して、いったい何を足掛かりに生きていったらいいんだろうという虚無感に放り込まれた。本格的にメンタルを病みだしたのはここからだった。

私が推し活に転げ落ちたのはそういう時期だった。何かを全力で追いかけるのって、どうしたらいいかわからない当時の自分の人生の中で唯一方向性のあることだった。コンテンツを摂取することも、商品を買うことも、ライブに足を運ぶことも、全部「推す」という一つの目的に直結していたし、しかも単純に楽しいし、仲間もいるし、大げさじゃなくて救われたと思う。でもやっぱり本質は逃避だったなとも思う。全力で一方向で走っていた人生で滑って転んで大けがして道もなくなってどうしようもなかった時に、そういう人生を忘れさせてくれる唯一のことだった。別に現実を忘れさせてくれる逃避先があるのはいいことなのだが、特に厄介だなと感じたのは、「自分ができなかった全力で自己実現する人生」を推しに投影して見ているなということ。これが私が「推し活」が「ファン活動」とはまた別の概念だなと感じる側面。ファンというのは、消費者であって、あくまで対象を摂取して楽しむものなのに、推し活は自己実現の手段になっている。投影していなかったとしても、かけたお金、時間、「活動」に価値を見出している。だからこれは、本を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたりして、その面白さで現実を忘れるのとは全然別の行為だと感じる。「ファン活動」はコンテンツにならないのに、「推し活生活」みたいなのはコンテンツになるのもそういう背景があるからだと思う。これって、推される対象側には何も問題はなく、あくまで推してる側の問題だ。少なくとも私はこれをすごく歪だと感じていて、自分の人生からの逃避だよなともずっと思っている。だから推しがいないという人に「推しがほしい」みたいなことを言われると強烈な違和感を感じる。「好きな歌手」「好きな作家」「好きなアイドル」と「推し」は違うんじゃないかと思っているから。「推し活」っていうのは「逃避したい人生」がない人には必要がないというか、ある程度必要にせまられてやっているというか。(ちなみに「逃避したい人生」とは「大変な人生」ということではないと思う。自分の人生に向き合う強さがあれば、どんなに大変でも逃避は必要ではないから)

 

あくまで自分の推し活をベースに考えているけど、そもそも言葉として「推す」という行為にフォーカスされている時点で、推し活ってファン活動とは違う自己実現の側面があるのは間違いないのではないかと思ってはいる。

ただそれって、別にそこまで悪いことではく、そういう逃避的な側面を自覚的にやる分には、まあ「逃げるのは悪いことではない」という最近の価値観にもマッチしている。ここにさらに違和感を感じるのは「推し活」が商売的にすさまじく推奨されている事実なのだ。実際儲かるのだろうけど、「推し活のある人生は幸せ、推せ、推せ、推せ」という雰囲気すらあるように私は感じる。だからこそ、健全に、娯楽を楽しんでいる人がなんとなく不安になって「推しが欲しい」なんて言ったりするんじゃないかと思う。(そもそも「推しが欲しい」って変だよね。「推す」って自分が主体となる行為だから、推せばいいじゃんとなる)

こんなことは推し活のど真ん中んにいる人間たちには自明のことなのかもしれないけど、やっぱり推し活がやたらポジティブな行為として推奨されている今の雰囲気はすごく違和感がある。

難しく考えすぎなのでは、そこまでネガティブにとらえなくてもいいのではとなるのかもしれないけど、「推し」という言葉を流行らせたのは「推ししか勝たん」というフレーズだろうし、やっぱりどう考えても、もともとは、極端で逃避的で依存的な行為なんだよね。

 

なんでこんな話をしたんだっけ?

「全力を一つのことに注ぐことの危うさ」と「半身で生きることで娯楽を娯楽として楽しめるようになろう」という提言について考えていたからだった。

どうしたって後者を選べるのは、それでも生きていける人間だけではないか?と思ってしまう。それは時間や作業の問題ではなくないかと。本当の芸術は奴隷制の上にしか成り立たないみたいなことと同じように。(いやむしろそうなのか、AIや機械を奴隷として、我々は余裕のある人生を謳歌すべきだとそういうことなのかも)

この考え方自体も逃避なのかもという気もしつつ、いったん思ったことを全部吐き出しておく。